機会の平等と結果の平等



学級委員長が居るのは他の生徒に対する差別☆狂った人権教育
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200902080102.html


○原文引用○

小学校でずっと学級委員長を置いてこなかった鳥取県「リーダーを選ぶのではなく平等を重視すべきだ」との考えが教員にあり、徒競走でも順位を決めないほどだったが、
この春、鳥取市の1校で約20年ぶりに学級委員長が生まれることになった。
「横並びでは子どもの主体性が無くなる」という鳥取市教委は、各校に「委員長復活」を推奨している。
学級委員長を置かない学校は全国的にも少なくないが、今回の動きはどんな影響を与えるか―。

鳥取県内の19市町村の教育委員会によると、いずれの自治体も全校調査はしていないものの、クラスを代表する学級委員長はいないという。
その代わり、図書委員、保健委員といった係と同格で、学級会などでクラスの意見をまとめる「運営委員」を置いている学校が多い。

鳥取市教委学校教育課によると、同市内の小学校で学級委員長が姿を消したのは20年ほど前。
当時、「他の児童を差別することにつながる」という意識が全市に広がったようだという。

鳥取県では、広い範囲で教員が集まって指導方法を検討する「研究会」が盛んに開かれている。
その中で学級委員長を置かない取り組みが「先進事例」として紹介され、広がった可能性がある
という。

県内の学校現場の「平等主義」は他にも例があった。運動会の徒競走で、児童の能力にあわせてコース内に「近道」を作ってゴール付近で接戦になるように調整する。
学芸会で、一つの劇の主役を複数の児童が途中で交代して演じる――。「うまくできない児童の気持ちを最優先に考えるような時期があった」
(同市教委)という。

同市教委は昨年度、児童・生徒と保護者に「学級集団と人権教育」をテーマにした調査を実施。
その結果、鳥取大学の一盛真(いちもりまこと)准教授(人権教育)は「身近な人間関係に立ち向かえず、仲間と問題を解決する経験が欠如している」と結論づけた。

市教委は「集団を率先してまとめる存在がクラスにいないことが影響している」と判断。
中川俊隆教育長は「社会性を身につける場を逃している」として、昨夏、教職員を集めた研修会で「子どもの成長に効果がある」と学級委員長の復活を求めた。

「素直でまじめだが、自主的な行動が少なく物静かな傾向がある」。昨年4月、県内で初めての小中一貫校になった鳥取市立湖南学園は、児童の特徴をこうとらえている。
その対応策として、同校は、新年度から小学5、6年生のクラスに「室長」という名称で学級委員長役を新設することを決めた。児童による学級、学校活動の活性化を目指すという。

田吉治郎校長は「リーダーがクラスをまとめ、みんなで支え合うことでチームワークを学べる。社会で求められるスキルだ」と意義を強調する。
保護者からも「これまでのクラスは機会均等というより人任せだった」といった声が上がっているという。

同校の動きに対し、市内の別の校長は「クラス運営の一つの方策だ。参考に見ていきたい」という。
「委員長なし」の現状を肯定する教員もいるが、一盛准教授は「リーダーを含めてクラス内に多様な役割を置き、個性を生かして支え合う関係づくりを経験すべきだ」
と学級委員長を設ける意義を強調する。

文部科学省によると、学級委員長を置くかどうかの公的な決まりはなく、各学校の判断にゆだねられているという。(北村有樹子)



■学級委員長、他の役職と同格の場合も 福岡・東京

クラスの代表として学級会の司会をしたり、全校の児童会の会議に出たりする「学級委員長」。
学校によって名称は色々あり、同じ立場でも、「長」と付けず「学級委員」などと呼ぶところもある。

岐阜大学の有村久春教授(教育学)によると、昭和40年代ごろまでは勉強ができる子などを先生が指名して決める形が全国的に多かった。
それが、「民主的な教育」が唱えられた昭和50年代以降、クラスのみんなに役割を経験させようという考え方が広まった
という。

立候補を募ったり、輪番制で回したりといったやり方が進む中で「学級内のヒエラルキーが薄まり、新聞係、生き物係といったその他の担当と『同格』になる学校が増えた」
と有村教授は指摘する。子どもの側も個人主義が強まり、リーダーシップを取りたがらないことも影響したようだ
という。

それが「近年になって学級崩壊やいじめの問題が深刻化し、『民主的なリーダーシップ』を育てる必要性が指摘され始めた」。
有村教授は、鳥取のケースもその一つではないかとみる。

各地の例はどうか。福岡市ではかつて「学級委員」という名称のリーダーの役職があったが、最近は「代表委員」と呼ぶことが多く、
「保健委員や体育委員と同じく、みんながなる役割の一つ」(市教委)になっているという。
市内の小学校教諭は「個人主義が広がり、もしいま『学級委員』が復活したとしても、その子を中心に一つになるとは考えにくい」と話す。

東京都教委は「役職を置いている学校は多いが、クラスの代表と位置づけたり、他の係の委員と同じ格だったりと、学校によってそれぞれ違う」。
都教職員組合も「地域性や先生の考え方による。どの子にもリーダーシップの機会を与える学校が多いようです」という。

一方、札幌市ではずっと「学級委員」などの名称で、クラスのリーダーを各学級に男女1人ずつ置いてきたところが多いという。
市教委は「勉強だけでなく、自治的活動も含めて社会的な様々なことを学ぶのだから、クラスの代表は必要です」と話す。(葉山梢)

○以上引用○




都市伝説だと思ってましたよ、徒競走の順位をつけないとか、学芸会でみんな主役とか(笑
実在したんですね、マジで。




基本的な事を確認しておくと、差別というのは正しい事ではない。それは事実。
しかし、差別と区別は違う。
能力や体力による順位付けは差別ではなく、区別である。


そして、平等。
これは機会の平等であって、結果の平等ではない。


徒競走の例を挙げれば、分かりやすい。
スタートとゴールが同じで、走る距離も同じ。立派な平等だ。
その結果は個人の能力に依るだけで、勝ちたければ練習して走り込めば良い。
運動会までの期間はみんな平等だ。


しかし、鳥取県の例はスタートとゴールは同じだが、コースが違う。
これは「結果の平等が正しい」という間違った認識の上に成り立った差別である。
つまり、足の遅い生徒に対し「オマエは劣っているんだ。だから短い距離で良い」という見下した差別であり、
結果として足の遅い生徒を優遇し、足の速い生徒は不利益を被る。これを「逆差別」という。


社会党共産党や「○○ユニオン」などの言う「差別されてる。平等にしろ」というのは、
「結果の平等」を求めての事であり、その延長線上には「優遇しろと」いう言葉が隠れている。





人間の能力や才能や境遇には違いがある。これは仕方のない事だ。
全ての人間が「平等に」同じ能力・性質になるというのは種の滅亡を意味する。


極論で例を挙げると、病気に対する免疫がそれだ。
全ての人間が「平等に」同じ免疫だとすれば、全ての人間が同じ病気にかかるという事だ。
その病が死病だとすれば、一人残らず死に至る。
だから生物は生き延びる為に雌雄を分け、ランダムな掛け合わせによって子孫を残し、多様性を持たせているのだ。


「結果の平等」というのは、その多様性を無くすために存在しているのだ。





学級委員にせよ、徒競走の結果にせよ、学芸会の主役にせよ全て成長に必要な過程だ。


まとめ役としての資質があるか、
身体能力がどうか
演技力があるかなど、
どれも自分の能力を知る事に必要だ。


もし、足が遅くても走るのが好きなら練習をするし、
能力の限界を感じたら短距離から長距離に種目を変更するかもしれない。


もし、将来役者になりたいのであれば、学芸会の主役に立候補しても良い。
それで自信がつくかもしれないし、不向きだと思うかもしれない。




つまり、そういった順位付けというのは
自分自身の限界を知る事であり、それを超える努力を行わせる事なのだ。


それを無視して「みんな一等賞です」「みんな主役です」となれば
誰もが自分の才能を知ることもなく、能力の限界を知る事もなく、
頑張ってもどうにもならない事があるという事を知る事が出来ない。


そうやって育つから、安易に結果を求めようとしたり、
自分の思い通りにならないとキレたりする人間が出来上がるのだ。




「思い通りにならないとキレる」というのはストレスにも繋がる部分だ。
ストレスというのは、自分と周囲との間に温度差がある場合に発生する。


「自分が正しい」「自分の思い通りにならない」
そういった考えを持てば持つほど、ストレスが溜まる。
しかし、自分の思い通りにならない事だってある事を認識していれば、
その温度差を当然の事として受け入れる事が出来るから、ストレスにはなり得ない。


最近は小学生でもストレスが原因で病気になったりしているようだが、
その原因は正にこれなのだと僕は考えている。





では、なぜ子どもを教える立場の教師が、そんな「平等」を信じているか
という事なのだが、これは日教組が問題なのだ。


上の引用で
>鳥取県では、広い範囲で教員が集まって指導方法を検討する「研究会」が盛んに開かれている。
とあったが、これは間違いなく日教組の集まりであろう。


そもそも、日教組というのは共産主義革命を目指して出来上がった組織である。
つまり、日本の民主主義を破壊し、共産主義国家にしようと目論んだワケだ。
しかし、ソビエトが長い年月をかけて共産主義の間違いを実践してしまったために、共産主義の実現が不可能になってしまった。
その結果、「日本の民主主義を破壊し」という部分だけが残り、今に至っているというワケだ。
 ※要約なので詳細は違います。各々調べてください




事実、結果の平等を求めて子どもをアホに育てたり、
男女の性差を無視した平等を押し進めようとしたり、
「平和」という美名の元に日本を無防備にしようと日々勤しんでいる。


これが「結果の平等」を求める人たちの真の姿である。