広島



黙祷。
原爆で亡くなられた全ての方のご冥福をお祈りします。





僕は幾つか疑問がある。




なぜ、広島、長崎と表記せず、ヒロシマナガサキなのだろう。
なぜ、カタカナなのだろう。
沖縄もたまにそう。オキナワと書かれる。


それは大体が「旧日本軍が暴走」とか「自決云々」とか「もう過ちは云々」という場合だ。
彼等(つまり「旧日本軍を悪としたい」人たち)にとっての記号なのだろうか。


つまり、ヒロシマナガサキ、オキナワと書けば、
それは即ち旧日本軍のせいで惨禍に巻き込まれた出来事を想起させるための。




広島は広島で良いじゃないか。





僕は小さい頃から原爆について
「もう過ちは犯しません。だから核を無くしたいです」というような論調を聞かされてきた。




でも、一体何が「過ち」なのだろう。


原爆を落とされたのは広島だ。
14万人の命が失われたのも広島だ。
なぜ、落とされた側が「原爆」について反省し、過ちと思わなければならないのだろう。


過ちを犯したのは、原爆を落としたのはアメリカだ。
14万人の命を奪ったのはリトルボーイだ。


もう、過ちを犯さないと誓うのは我々ではなく、アメリカの方ではないのか?


もっとも。
アメリカ側は原爆投下を正当な行為として見なしているから「過ち」とは思っていない。
 →アメリカの大学が先日行った世論調査で61%が「正当な行為」と答えた。




なぜ、正当として捉えているのか。それは
1・戦争だったから
2・ソ連との核競争に於いての優位性を確立出来たから
3・反撃される可能性が無かったから
4・試し打ちに最適な「敵国」だったから
であろう。




もし、日本に「過ち」があったとすると、
サッチャー首相が言ったように、日本には核が無く、反撃出来る可能性がなかった事であろう。
もし、日本に核があれば、アメリカは核を落とさなかった。


しかし、核が落ちなかったら、本土決戦という事態になっていたかもしれない。
そういった意味では、我々は広島と長崎の方々の犠牲の上に生きているのかもしれない。


もちろん、核兵器が無くなるのが一番であろう。しかし、それは夢物語だ。
核は決して無くならない。
この世から、犯罪が無くならないのと同じように。




では、核の被害を二度と受けないためにはどうすれば良いのか。
1・戦争にならない外交政策を行う事
2・核を保持し、落とされないようにする事
この二点に尽きる。


核被害の惨劇を伝えよう という論調もあるが、
核の保有国は惨劇の内容をとっくに知っている。知っているから核を保有しているのだ。


憲法九条で戦争の放棄を謳ってはいるが、それは日本が言っているだけで、
他国からしてみれば全く関係ない。
勝手に放棄してろ としか思われていない。


九条のおかげで60年以上戦争に巻き込まれなかった。ステキな平和憲法だ というヒトも居る。
しかし、戦争が起きなかったのは憲法のお陰ではない。
外交政策アメリカとの同盟のお陰だ。
支那中国もロシアも、日本に手を出せばアメリカからの報復があるから手を出さなかっただけだ。
もちろん、アメリカとしては支那中国とロシアに対抗するための
太平洋防衛ラインとしての役割を日本列島に求めているという事情もある。
それはお互いのギブアンドテイクであろう。でも、それが外交であり同盟だ。




広島も長崎も、被害者なのだ。
「過ち」と卑下する理由は一切無い。





もう一つ疑問がある。


広島での被害者は14万人、長崎では7万4千人とされている。
一方、南京大虐殺と一般的に呼ばれている空想上の出来事では、30万人が旧日本軍に殺された事になっている。
南京事件は1937年12月10日から翌年2月ににかけて起きた。
旧日本軍の持っていた頼りない軽火器と銃剣で、どうやって広島・長崎の1.4倍の人命を奪う事が出来ようか。


この現実的でない数字も、大いなる疑問である。





彼等の言いたい「過ち」について


何が過ちか。
それは「無謀な戦争に突き進んでいった」という事を言いたいのは重々承知している。
それをわかった上で、あえて書いている。




血を流してでも、命を賭してでも護るものはある。
それを「無謀」「突き進む」「過ち」というのであれば、それも良かろう。


そう思うのであれば、
家族が、恋人が、子どもが、目の前で殺されそうになっていても、手をこまねいていろ。