講演



ちょいと気になる講演をテキストに起こしてみた。
やはりと言うか、なんと言うか、立派な方なんだな、と再認識。


自身の事を「一介の仏教僧」と位置付けているトコとか、
どっかの誰かに読ませてやりたい(笑






ダライ・ラマ法王猊下日本講演 2008.11.06 於 両国国技館






仏教を介して日本の皆さんに、この場でお目にかかれたことを、大変幸せに思います。


私は、一人ひとり各個人には、偉大な可能性が秘められている考えます。
幸せというものは一人ひとりの人間から作り出されるものです。
そして、一人の個人が幸せになることは、ひいては家庭における幸せを作り出す事であり、
ひいては世界平和へと繋がっていくのです。


つまり、世界レベルにおける変化というものは、個人レベルから作り出されるものなのです。
ですから、このような公の場でお話する事は、皆さん一人ひとりの役に立つ事で、
それが世界平和に繋がる重要な事なのだと思っているのです。


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皆様がお忙しい中、私の話を聞きに来て頂いたのは大変有り難いのですが、皆さんの中には
ダライ・ラマ法王には特別な力があって、何か特別なメッセージが聞けるんじゃないか」
「ある種の超能力、ヒーリング・パワーみたいなものがあるのではないか。それを見てやろう」
というふうに思って来た方もいるかもしれません。これは大きな間違いです。
私にはそういう力はありません。


私はむしろ、ヒーリング・パワーのようなものには懐疑的です。
私は、つい数週間前に胆石の手術をしましたが、そのような力を持っている人がいるなら、
お会いして手術することなく胆石を取って欲しいです(笑)。しかし、そんな事はあり得ない。
そのようなパワーがあると思うこと自体ナンセンスなのです。
私は一人の仏教の僧侶であり、そういう神秘的な事を信じていません。


では何を信じているのかといえば、論理的な物の考え方や分析によって裏付けされた事だけを信じています。
つまり、私は証拠に基づいた科学的な物の考え方をしているのです。
そして論理や証拠に基づく事実だけを検証します。


釈尊が述べられた言葉の中にも、釈尊の言葉をそのまま信じるのではなく、
信じるかどうか自由に選択できる権利が、皆さんにはあると思います。
もし正しくないと思うのなら、それを受け入れない事を選択しても良いのです。


ですから、簡単に信じるのではなく、自分で調べて、正しいと判断して受け入れる事をしなければならない。
釈尊は選択の自由を与えてくれたのですから、私たちも自分で考えて選択しなければなりません。


はっきり申し上げておきたいのは、私は六十億人いる人間の中の一人に過ぎず、一介の仏教僧であり、
釈尊の一人の弟子でしかないのです。一人の人間として皆様方に話しているのであり、
また一人の人間としての共通の体験、一般的に共有されている常識を元にお話させていただいている事を、
皆様方に伝えておきたいのです。


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人間のみならず、全ての命ある者達が、心の中では肉体と精神の二つのレベルで幸せになる事を望んでいます。
誰もが幸せな暮らしをしたいという願い、平和を願っており、誰かに妨害されたり苦しんだりする事を望んではいない。


私は、現代は肉体的、物質的な面では、ある程度の幸せなレベルに到達しているのではないかと思います。
しかしながら、その一方で様々な問題にも満ち溢れています。まだまだ不幸な人々は存在しているし、貧富の差もあります。


北九州のある女子高校を訪問した時、そこに一人のバングラデシュからの留学生がいました。
その留学生がこんな事を話してくれました。


日本に暮らしていると朝が来て幸せに過ごす事ができ、当然のようにそれが続いていくと考えてしまう。
しかし、バングラデュに戻ると、四歳くらいの少女が自分に「お金を下さい」と物乞いをしてきた。
この差の現実を見るのはつらい事だ、と。


個人のレベルだけでなく、社会的なレベル、国家間の問題として貧富の問題が存在しており、自由な国の中でも、
同じ様なチャンスがありながら、貧しいままの人たちがいるのです。


日本は物質的な向上という面では非常にめざましいものがあり、技術や環境が整っています。
留学生が言うように、今日と同じ様な幸せな日が当然のように明日も来ると多くの人が思っており、実際に来るでしょう。


しかし、その一方で多くの人たちは精神的に悩まされているという事実があります。不安を持ち心配事を抱え、
時には自殺をしてしまう人もいる。若い人で、心に痛みを抱えている人は増えていると聞きます。


ということは、物だけで人間を幸せにする事は出来ない。つまり、人間は物質的に恵まれているだけでは、
精神的には幸せになれないという明かな証拠ではないでしょうか。
いくら肉体的な生活が保障されていても、精神的に幸せな生活が出来るとは、保障されていないのです。


精神的なレベルについて考えてみると、私たち人間は様々な精神的な問題に直面する事が多いでしょう。
精神的に困難な場面に直面した時、物質的に解決する事は出来ません。
物質的なレベルにおいての変化は、何らかの作用を起こす力を持った物質、しかも相対する矛盾する類の物質によって
起こす事が出来ます。例えば美しい花の色や大きさを変えたい場合は、何かしらの物質を与えれば、その変化は起こる。


精神的なレベルでも同じ事が言えます。つまり、ある感情はそれと正反対の心や感情を持つことで克服出来るのです。
憎しみや怒りの心は、単に無くしたいと願うだけではなく、優しさや思いやりのある心を育む事で無くす事が出来るのです。


またある人に対して恐怖感を持っているなら、その人に対する信頼感を育む。信頼し、相手を知り、その原因を調べる事で
恐怖を抱いている対象が怖れるに足るものではないと理解し、初めて恐怖を取り除く事が出来るのです。


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ここで何が大切かというと、何事も自分で調べる事です。肉体的レベルで言えば、どのようなものが健康に良いか、
体に良いのか、役に立つのか、また逆に健康を害するものはどれなのか。同じように精神的レベルでも、
どのような感情が自分に役立ち、どのような感情が害をもたらすのか。そこを見極めなければなりません。
良いものは選び、悪いものは避けるというルールは肉体面でも精神面でも変わらないのです。


心に愛や慈悲、他人に対してのあたたかさと思いやりがあれば、
他人だけでなく自分の心も平穏で乱される事がない健康な状態が維持されます。
しかしその逆に、憎しみや嫉妬心、恐怖心が心にある場合は、悪影響を及ぼし、健康まで害してしまう。


最新の科学的研究でも、慈悲の心を育む事で、体に備わっている免疫機能が高められた。
逆に怒りの心を持ち続けると免疫機能が低下した、という事が報告されています。


さっき申し上げたように私はごく最近胆石の手術をしました。本来胆石の手術は15〜20分ほどで終わる簡単な手術なのですが、
私の場合、複雑な状況にあり、三時間ほどかかってしまいました。しかし手術後の回復はとても早く、担当医も驚いておりました。
これはどうしてかと考えたところ、私の精神状況というものが比較的平穏で、平和な心を維持しているからでしょう。
平穏な心が体の免疫機能、回復機能を高め、健康を維持してくれているのです。ですから私たちは良き感情を増やしていく事が
大切な事であり、またどのような感情が具体的な効果を現すのかを知ることが非常に重要なのです。


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しかし、その一方で怒りや恐怖といった破壊的な感情も、人間的感情、心の一部であるのもまた事実です。
そして、その破壊的な感情は生き延びていくのに必要でもあるのです。


例えば執着心は、自分が生き延びていくために自分が好ましく思っているものを側に集めようとする力です。
また怒りや憎しみの心は、逆境や困難を乗り越える力となり、好ましくないものを避けるのに役立つという面があるのです。


このように、怒りや憎しみ、執着心などの破壊的な感情も、私たちには必要なものとして本来的に備わっているのです。


ただ、これらの感情が限度を超え、バランスを失うと危険なものとなり、私たちに害をもたらし、
正しい物の見方が出来なくなってしまいます。一時の敵でも永遠の敵と見えてしまう。しかし、今日自分に害をもたらす敵でも明日
明後日、いつかは何らかの条件で友となりえる事を考えれば「永遠の敵」と見えるのは破壊的感情からなる誇張に過ぎないのです。


現実的な物の見方が出来なくなれば間違った行動に走ってしまう。ですから、本来持っている破壊的な感情に限度があることを認識し
害を及ぼさない範囲で使う事を学ばなければならないのです。破壊的な感情が心の中をかき乱し、心の平和を壊してしまう。
そのような状態に陥ってしまうと、物事を正しく見ること、判断する事が出来なくなります。


2、3年ほど前、スウェーデンストックホルムで80歳代の心理学者の方に聞いた話では、
人間の心が完璧に怒りや憎しみに支配されてしまうと、見ている対象をネガティブに捉えてしまう。
しかし、そのうちの90%近くは、怒りや憎しみで支配された心が作り出した、歪められたものだ、と。
仏教の経典にも同じ事が書かれています。破壊的な感情に支配されてしまえば、私たちの脳は正しい働きが出来なくなるのです。


誰もがトラブルや困難は欲しくない。朝起きた時、誰もがその日1日を平穏に過ごしたいと願っており、平和に過ごせる事を期待している。
しかし、長い時間で見れば、次から次に問題は発生していきます。これは何故かと言うと、私たちが採っている問題解決の手段が
非現実的になっており、リアリティの把握に欠けているからに他なりません。


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自分が現実を見ていると思ったとしても、それは現実の一つの角度、一つの面しか見ていない場合が多いのです。
しかし、それで見ている対象を完全に正しく理解していると思ってしまうから間違いが起こってしまう。
この世の中に存在しているものは、全て相対的に存在しているのです。
中指が長い、という事は人差し指や薬指と比べて、初めて指の中で一番長いとわかります。


同じ様に物の善し悪しなどを判断する場合でも、何かと比較しなければ判断は出来ないのです。そのために、物事を一つの角度ではなく、
三つでも四つでも充分でなく、全ての方角から見て、初めてそのものの実際の姿を現実的に捉える事が出来る。
様々な観点から見る事をして初めて問題解決へアプローチ出来るのです。
狭い視野に立って物を見ている限り、間違ったアプローチしか取る事は出来ないのです。


ですから、皆様方も、自分の心を持続的に観察し、心の環境バランスが取れているかを見て下さい。心が平穏であるとわかれば、
ストレスも少なく、不安も心配も減っていくはずです。精神安定剤を飲まなければ落ち着かないという状態にはなりません。
そして平和な心を持った人間になれるのなら、あなたの家庭も平和になれるし、社会にも良い影響を与えるでしょう。
つまり、個人の心の平和が世界レベルの大きな土台となるのです。


私たち全ての人間には愛や慈悲の心が備わっています。人間が生き延びていくために必要とされているからです。
新生児が生まれ落ちて三週間の間、母の胸に抱かれたりして肉体的なコンタクトの多かった子どもは脳の発達が素晴らしい、
という医学的研究結果が報告されています。母の胸に触れ、愛情に包まれた家庭で育つという事は、肉体的なレベルだけでなく
精神的な意味においても重要なのです。その家庭が物質的環境や設備に恵まれているかどうかではない。
子どもに愛情を注いでいるかどうか、家庭に愛が溢れているかどうかが、子どもに一番影響を与えるのです。
人間はみな母親から生まれてきた。そういった意味で、私たちには同じ可能性があり、みな本来的に愛と慈悲の心が備わっている。
このことにもっと関心を払うべきであると思います。


仏教、また古代インドに伝わる哲学的な見解の中には、心というものについて詳しい説明があります。
心は、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)と意識の六つの種類に分けられる。
さらにそれぞれの感が様々な機能を持っていると分析されています。
基本的に心、意識というのは、常にニュートラル、中立的な状態に保たれています。
そこに心の機能である良き感情、または悪い感情が働きバランスを失っていくのです。
ただ、この時、皆様もご自分の経験からわかると思いますが、対象物に対して、愛と怒りを同時に持つ事は出来ません。
ある時は愛を持ち、ある時は怒りを持つ事はあり得ますが、相反する事を同時に持つ事は不可能です。
つまり、ニュートラルな心は、その感情によってどの方向にも振れていく、という事です。


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最後に心の本質について説明させて頂きます。
心というものは第一のレベルで、非常に一時的な条件によって何らかの変化が表立って出てきます。
しかし、それは条件次第で出たり消えたりを繰り返します。その一方で非常に微細なレベルの心も存在しており、
こちらも絶えず変化を起こしているものなのです。その本質は光明、光り輝く清らかな心なのです。


心とは、例えれば水のようなものです。濁った泥水でも置いておくと、泥は底に沈殿し、上には澄んだ水が出来る。
一時的に泥と混じったとしても澄んでいる水の本質は変わらないのです。また水は氷という個体にも変化しますが、
本質が水であることに変わりはありません。
ですから私たちの破壊的な感情も、愛や慈悲の心も、全て光り輝く清らかな心が土台となっている、という事なのです。


宗教的に言うと、般若心経の中にある「色即是空、空即是空」とあるように、物質の本質は空であり、空であるがゆえに存在している。
同じ様に私たちの心の本質も空であり、空であるがゆえに存在しているのです。