書評:アフターダーク

作者:村上春樹
 
 
書評とは言っても論評するワケではない。
僕は「評論」という行為はキライだ。
自分が出来ないコトに対して、論じるコトは出来ないからだ。

だからあくまでも感想文である。
 
 

  1. +

正直、消化不良である。村上春樹は一体どうしてしまったのだろう。
今回の作品はデビュー25周年を飾る記念作だった筈だ。
彼の作品はおおよそ
1・初期の作品に見られる「暗喩・隠喩」を多用した純文
2・短編に多く見られる、軽妙なテンポな文
3・中期に見られる、寓話的な文
4・世界の終わり〜からの流れである「あっちとこっち」の深層心理を描いた文
という4つに分類されると思う。
アフターダークは「あっちとこっちの深層心理=壁を抜けた世界」を描きつつも
初期に見られた独特の言い回し・表現方法を復活させ、
「読者にとってどこか懐かしい」雰囲気を出しているとは思う。
 
 
 
しかし、僕には明確なテーマも見いだせず、読者に何を伝えようとしているのかが、
わからないままだ。
 
 
 
 
 
読んでいて、最初に感じたのは違和感だった。
それは今までに無い書き方、例えば「私たち」という表記や、文節の区切り方の違いだけではない。
そんな表面上の事ではない。もっと内部的な違和感が残ったのだ。
僕はそれを考えるためにも、過去の作品を読み返す事にした。
 
 
しかし、会話のテンポやそこに含まれる「氷山の一角手法」や会話の方向性には大きな違いは無い。
 
 
僕はそこで改めて「タカハシ」と「マリ」の会話を読み返してみた。
 
 
 
そうだ。

そうだったんだ、違和感の原因は。
 
 
 
 
「タカハシ」と「マリ」はまだ19歳だったり20代前半なのだ。
それも「現代を生きる若者」なのだ。
 
 
 
その若者に、今までの登場人物が語るような会話をさせているから、違和感があるのだ。
つまり、「おいおい、19やハタチは、そんな賢くないだろ・・・」という事だ。
 
 
 
 
方や「姉との比較に疲れたプチ家出娘」
方や「大学生のトロンボーン吹き」
 
 
 
その二人に
「僕と鼠」、「僕と羊男」、「僕と黒服の男」、「僕とユキ・松村拓」「僕と五反田君」、
「僕と島本さん」、「岡田亨と間宮中尉」、「僕と緑」
といった人たちと同等の会話をさせているから、違和感があるのだ。

それまでの「彼等」は30代だったり、俳優だったり、作家だったり、若くても全共闘を経験していたり、
表面に出てこない経験をしている人たちばかりだった。

だからこそ会話の一つ一つに説得力があったのだと思う。
 
 
しかし。
タカハシもマリも、ドコにでもいる若造でしかない。
 
 
 
それが僕の感じた違和感だった。
 
 

  1. +

 
 
さて、書評で「白川=綿谷昇」という関連付けがなされていた。
確かに白川は今回唯一の「あちら側」での悪役である。
しかし、「こちら側」でしか悪事は働かず、「あちら側」では存在をほのめかすだけに留まった。
続編があるのならば、その気の保たせようも納得行くが、現状では1作完結である。
読んでいる側としては「おいおい、そこで終わりかよ」とツッコミの一つでも入れたくなる。
 
 
 
結局僕としては
「夜食に何を食べたのかってこと」
「ああ、中華料理。いつもと同じだよ。腹持ちが良いからさ」
「おいしかった?」
「いや・・・そうでもなかった」

という部分が印象に残る結果となった。
 
 
結局喰いっぱぐれたのにね。
 
 
 

  1. +

 
 
今までは「何も解決しないまでも、一応大円団」という体裁を保ってきたと思うのだが
アフターダークはそうではない。たった一晩の情景を淡々と僕に示しただけだった。
 
 
これが「村上春樹の新境地」というのならば納得するが
そうでなければ「やはり消化不良」と思わざるを得ない。
  
 

  1. +

 
 
さて、あまりロクな事を書いていないが、
1箇所楽しい部分がある。
 
 
 
203ページにその文章は載っている。「タカハシ」と「マリ」の会話だ
「いいよ、歩こう。歩くのはいいことだ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」
「何、それ?」
「僕の人生のモットーだ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」

この「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」は販促のPOPにも使われた語句だが
それほど深い文章なのだろうか。
 
 
 
ところで「風の歌を聴け三部作(もしくは四部作)」の二作目
1973年のピンボール」の19章でで「ジェイ」が「鼠」にこう語る。
 
 
 
「おやすみ。」と鼠は言った。
「おやすみ。」とジェイが言った。「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね。」

 
 
 
このような符号もしくは他の作品とのつなぎ合わせというのは作者本人の楽しみなのか、
読者へのサービスなのかは不明だが、色々な作品を読む楽しみの一つではあると思う。
 
 
しかし、今までのパターンを考えると、繋がる「モノ」は重要な事が多かった。
 
 
 
 
例えば「風の歌」の直子と「ノルウェイ」の直子
例えば「ダンス・ダンス・ダンス」の松村拓と「世界の終わりと」の参考文献の訳者の松村拓
例えば「風の歌三部作」や短編に使われる「ワタナベノボル」
例えば「ワタナベノボル」が転じた「綿谷昇」
例えば「ノルウェイ」の文末と「ダンス」の書きだし
例えば「笠原メイ」と「笠原メイ」
 
 
 
これらは主に初期の作品だが、この初期の作品である「1973年のピンボール」から
最新作へと繋げる「何か」があるのかどうか僕には分からない。
 
 
 
ひょっとしたら何かあるのかもしれないし、
そう思わせておいて「単なるお遊び」なのかもしれない。
 
 
 
しかし、その真偽はどうでも良いと思う。
僕自身が楽しく読めれば良い。ただそれだけだ。
 
 

  1. +

 
 
さて、いずれにせよこのアフターダークは僕にとっては謎である。
 
 
果たして全くの新境地なのか
それとも中途半端な作なのか。
 
 
 
しかし文章の最後で
「夜はまだ明けたばかり」と言っているのだから
新しい方向性を持った作品への足がかりなのだと思う。