「大事な存在」の側
友達のネコが天寿を全うした。
ちょっと今日は「一人喪中」って事で。
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友達から電話があったのは週末の事で、
ネコの持病でもある腎不全を煩っていたとの事だった。
ネコの腎臓はちっこいから、塩分は大敵なのだ。
だからネコの缶詰は味がしないくらいに薄味で、
そういう意味では人の食べる焼き魚は、
美味だけど、身体に毒なのです。
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とはいえ、その仔はもう20歳近かったので、
暴食してたというよりは、一種の生活習慣病のようなモノで
飼い主である友人が気付かなくても仕方がない。
気付いたときにはもう手遅れ
それがネコの腎不全なのです。
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それはともかく。
僕は心配しつつも週末を過ごしたワケだけど、
日曜日にメールが届き、息を引き取った事を知った。
ネコは死期を悟ると、フイっと何処かへ行ってしまう生き物なので、
「外に出たがるだろうけど、骨を拾ってあげたいなら、出しちゃダメだよ」
と伝えておいた。
それを実行したかどうかは分からないけど、
「腕の中で逝きました」とメールが届いた。
こういう時、どうやって声をかければ良いのか、結構悩む。
元気、出してね
と言ったって、元気が出るモノではないし
寿命だったんだよ
って言ったって、そんなのは分かりきっている。
だから僕は
「腕の中で逝けて幸せだったんじゃないかな。
腕の中で逝ってくれたんだから、○○の事が大好きだったんだよ^^」
とメールを送った。
ネコの最期を看取ってあげられるのも、
飼い主の腕の中で逝けるのも
どちらも幸せな事だと思う。
やっぱり
最期の「時」は「大事な存在」の側に在りたいと
僕はそう思う。
逝く方も、見送る方も、ね。