29・一つの区切り
□2007年3月・6□
ヨメさんと話をした翌日、僕は普通に起きて、普通に居間に行った。
ヨメさんは少し寝不足な雰囲気だったけど、至って普通にしていた。
僕は遅い朝食を摂り、コーヒーを飲んだ。
普通に会話をして、普通に買い物に行った。
それは至って普通の休日の姿だった。
僕は不思議な感覚に陥ったけれど、きっとヨメさんもそうだったに違いない。
☆
数日後、僕はW子に手紙を書いた。
それを出すかどうかは決めていなかったけど、
僕が考えていた事や、思った事、行った事、そんな色々な事を紙に書き連ねた。
色々と思い出しながら書いていると、
僕はやっと客観的に自分のしてきた事を振り返る事が出来た。
そして自分自身にウンザリした。
やれやれ。
僕はなんであんなに冷静さを欠いていたのだろう。
僕はなんであんなに独りよがりな事をしていたのだろう。
そんな反省の気持ちを込めて、僕は文章を書いた。
僕が「その時」どんな考えだったか。
僕が「その時」何を求めていたか。
僕が「それから」何を思い出したか。
僕が「それから」どんな結論に辿り着いたか。
そんな事を、ただ書き続けていた。
それは手紙というより弁明や声明に近かった。
でも、それは僕の正直な気持ちだったし、
何一つ隠す事の無い、僕自身の心だった。
僕は二週間近くかけて手紙を書き上げた。
改めて読み返してみると、何とも言い難い内容だった。
当時の事が書いてあり、W子に対する気持ちが書いてあり、
ヨメさんとの事が書いてあり、離婚話しを切り出した事も書いてあった。
僕はそれから数日悩み、結局ポストに投函した。
□2007年4月
W子に手紙を出したからといって、何かが変わることも無かった。
毎日遅くまで仕事をし、夜になれば押しつぶされるような感覚に陥っていた。
そして暫くして、僕はある結論を出した。
W子から、絶対に返事は来ない と。
それは当然の事だった。
一つは、W子にとって僕は過去の存在である事。
そしてもう一つは、僕自身の状況が何も変わっていないのがその理由だ。
もし、0.0001%の確率でW子と連絡がつくとしたら、
それは僕の状況が「今」と違った時であろう。
しかし、
それは僕が決めていた「W子と離婚は関係ない」というスタンスを壊すものだった。
だから、僕はその事について考えるのを止めた。
考えているだけで、何かがあるわけではないのだ。
K子が言ったように、
僕自身が行動しなければ、何も変わらないのだ。
□2007年6月
気が付けば春が過ぎ、すでに6月になっていた。
その間、家の中は何も変わらなかった。
前と変わらない毎日、
前と変わらない会話、
前と変わらない状況。
3ヶ月間、僕はただ生きていただけだった。
希望も気負いも気力も気概もなく、
ただ息をして食物を摂取し、眠っていた。
6月という季節は、僕を複雑な気持ちにさせた。
なぜならW子の誕生月であり、P子の誕生月でもあったからだ。
W子の事を考えないようにしていても、
そういった節目の出来事があると、どうしても思い出してしまった。
元気にしているだろうか。
仕事は頑張っているんだろうか。
毎日笑顔で居られているんだろうか。
そんな事を、あてもなく考えていたけれど
それはあまりに不健康な気がした。
結局、僕は気が付くとW子の事を思い出していたのだ。
切り離して考えよう などとカッコつけてみたところでそれが実行出来ていなかった。
きっと、何か区切りになる「何か」が無いとダメなんだな。
僕はそう思った。
本来は2月にしろ3月にしろ区切りはあったのだろうけど、
僕はそれを未練がましくダラダラと引きずっていたのだ。
☆
僕はW子の誕生日に花を贈った。
きっと迷惑だろうな と思ったけれど贈ってしまった。
贈ったからと言って、W子からの反応が何もない事は解っていた。
もちろん少しは期待したけれど、絶対に何の反応も無い事は解っていた。
なぜなら、
僕が逆の立場だったら何もアクションを起こさないだろうからだ。
W子の誕生日が過ぎ、当然のように何の反応もなかった。
そして、僕はやっとW子への気持ちに一区切りをつける事が出来た。
それは「忘れる」とか、「もうどんな感情もない」とか
そういった事では無かった。
区切りをつけたって、僕にとってW子が大事な存在で在る事に変わりは無かったけれど
その感情を完全に抑え込む事にした。
つまり「よし、W子について考えるのは、ひとまずここまで」と区切りをつけたのだ。
いずれまたその感情が復活するだろうけど、それは「何かしらの結果」が出てからだ、と決めたのだ。
☆
区切りをつけると、ほんの少しだけ気持ちが軽くなったような気がしたけれど、
何かが解決したワケでもなかった。
P子の一歳の誕生日から数日経ったある日、
僕はヨメさんともう一度話し合う事にした。