8・儀式の電話
□2006年6月・4□
僕は少しでも早くW子に会いたかったけど、
現実問題として病院には顔を出さなくてはならなかった。
ましてや産まれた翌日ともなれば。
☆
久々に一人の朝を迎えた僕は、W子にメールの返事を送った。
W子の配属が変わった4月から、僕は毎朝6時にタイマーメールを送っていた。*1
彼女は毎朝起きた時にそのメールを読み、通勤電車の中で返事を書き、
僕は起きてからその返信をする。
そんなやり取りを毎日欠かさず続けていた。
「目がぱんぱんに腫れてる(汗) 寝不足って事にしておくー」
メールにはそんな感じの事が書いてあった。
さて、今日も一日がんばるか
僕はメールの返信をして、会社に行く準備をした。
子供が産まれてこようがなんだろうが、
目の前には締め切りの迫った仕事が残っているのだ。
☆
僕は大急ぎで仕事を終わらせ、半年ぶりに早い時間に帰宅した。*2
帰るとちょうどW子から電話が来たので少し話をした。
「もう、家?」
「うん。これから病院に行って来る」
「ゴハンは?」
「んー、帰ってきてから、かなぁ」
「買ってくるの?」
「んにゃ、長居しないつもりだし、パスタでも作ろうかな、って」
「あはは。水菜とツナがオススメだよ〜」
「お、良いねぇ。でもカルボナーラのソースが余ってるんだよなぁ」
そんな他愛も無い会話だったけど、
その時の僕とW子は、相手の「声」を聴く事の方が大事だった。
「そこに居る」事を確認したい
「ここに居る」事を伝えたい
「お互いが繋がっている」事を感じ取りたい
そんな儀式のような電話だった。
「じゃぁ、ちょっと行ってくるね」
「うん。行ってらっしゃい」
自転車に乗って病院へ向かっているとW子からメールが入った。
「待ってるから、帰ってきてね。信じてるから」
「うん。ちゃんと帰るから大丈夫だよ。待っててね」
僕はそう返信し、病院へ向かった。
☆
産科病棟は、遅い時間でもロビーでの面会が許されていた。
子供は基準値よりほんの数グラム小さい体で産まれてきたので、
違う病棟にいるとの事だった。
僕とヨメさんは真っ暗な廊下を歩き、子供のいる病棟へ向かい
消毒液で手を洗い、洋服の上から抗菌のスモッグをかぶり
保育器の所へ向かった。
ちっちゃいけど、ちゃんと生きてるんだ・・・
僕は抱っこをしながらそう思った。
そして、
この後、一体どうなっていくのかな
とも思った。
「きっと色々と葛藤もするだろう」
「子供に対して愛着が湧いてくるかもしれない」
僕ですら、漠然とそういった不安があったのだから、
実際に産まれてきた今、その何十倍もW子は不安だったはずだ。
「ぽんが子供から離れられなくなったらどうしよう」
「「家」に戻っていってしまったらどうしよう」
直接そういったコトバを聞きはしなかったけれど
病院に来る前にもらった
「待ってるから、帰ってきてね。信じてるから」という一行のメールで
その気持ちは痛いほどに伝わってきた。
その「辛い気持ち」に対し、僕は「ごめんね」と思うと同時に
「たくさん想ってくれてありがとう」という気持ちにもなった。
そして、どうなっていこうとも、
僕の決心は変わらなかったし、変えたくなかった。
その為には何でもしよう と思った。
☆
僕は家に帰り、夕飯を食べ、洗濯をし、掃除をした。
そして、もう一度W子に電話をした。
「ただいま〜」
「おかえり〜」
いつものやり取りだった。
「明日、どうしよっか」
翌日、僕はW子と会う予定だった。
「どうしよう。ぽん、夕飯食べるでしょ?」
「うん。W子はどうする?」
「どうしようかなぁ・・・」
「あのね・・・」
W子はしばらくしてから口を開いた。
「ぽんの家のネコ、見に行って良い?」
W子もネコが好きで、僕がネコのハナシをする度に
「良いな〜良いな〜 会ってみたいな〜」
と言っていたのだ。
確かに僕が家に一人でいる期間を逃すと、*3
ネコに会わせてあげられるチャンスはそうそう巡って来ない筈だった。
僕も、W子を家に呼ぶことは考えていたし、
もちろん来て欲しい気持ちはあった。
でも、少しだけ複雑な気持ちがあった。
それは僕が「家族」をしている場所をあまり見せたくない
という感情よりも
僕が「家族」をしている場所を見て、W子が嫌な気持ちになったりしないだろうか?
という不安の方が大きかった。
でも。
でも、
僕はW子に対して、何も隠したくなかったし、
全てを知って貰いたかった。
全てを伝えた上でW子を愛したかったし、
全てを知った上でW子に愛してほしかった。
「もちろん、良いよ」
僕はちょっとだけ複雑な気持ちのまま、そう返事をした。