14・ワガママ



□2006年秋□


僕とW子は比較的平穏な毎日を過ごしていた。





僕はヨメさんが帰ってきた日から、自分の部屋で寝るようになっていた。
それはもちろん「3時間に1回の授乳」の度に目が覚めていたら
僕のカラダがもたないからだった。


だから僕は自分の部屋で寝た。
それは僕にとって気の休まる空間で、安心した睡眠時間だった。


問題は、ヨメさんの部屋をネコの立入禁止空間にしたせいで
僕の部屋にネコたちが溜まってしまう事だった。


だから「完全に一人で」寝る事は出来なかったけど、
それでも部屋に居る事は楽しかった。






W子はというと
相変わらず仕事が忙しく、なかなか楽にはならなかった。
派手に体調を崩す事はなかったけど、
肉体的・精神的な疲労から食欲が落ちてきていた。


僕はW子の身体が心配になり、
出来ることなら部署替えか転職を勧めたりもしていた。





僕とW子は平日に1回、夜から喫茶店でお茶をして*1
週末は土日のどちらかに数時間だけ会っていた。




僕はヨメさんに「買物に行って来る」と言ってはフラっと出掛けていた。


実際には大した買物は無かったので、あまり長い時間出掛ける事も出来ず
いつも17時が近くなると「そろそろ帰らなくちゃ・・・」
と言ってはW子の後ろ姿を見送る事になった。


W子は遊び足りないのか、それとも寂しさからなのか
そのまますぐに家に帰る事はあまりなく、
少し買物をしたり、自分の地元でお茶をしてから帰る事が多かった。






そんな状況だったので、
僕はヨメさんに「友達何人かと会ってくる」と言って、
週末の朝から出掛け、ゆっくりとW子と会う事もした。




せめて、僕の方で時間を作らなきゃ


それは僕の「引け目」だったかもしれない。
そして「リスクを負っているのかな?」と感じた一瞬でもあった。


僕としては、表面上は落ち度の無い離婚を目指す以上、
なるべくなら必要以上のリスクは負いたくなかった。


そんな考えがあったのは確かだった。




W子が平日にまったく時間を作れなかったというとそうでもなく、
たまに代休を取ってくれて、そんな時は僕も休みを取り
ゆっくりと知らない街を散歩したりしていた。





10月のある土曜日、
僕は適当に理由をつけて朝から出掛けた。


その日、W子の大学時代の後輩たちが、サークル発表のような事をやることになり、
それを一緒に見に行ったのだ。
 →昨年の10月11日の記事を参照


僕の知り合いにW子を合わせた事は何度かあったけど、
W子の友達に会うのはこの時が初めてだった。


W子は「いろんな人に紹介できるのって、ちょっと変な感じがするけど嬉しいよね」
と言ってたけど、僕も同じ気持ちだった。


僕は舞台をしている後輩や、父親の元カノに会わせたりしていたけど、
少しずつ「お互いのテリトリー」に馴染んでいく事は
「今後へ向けての第一歩」という感じがしたのだ。




僕の中では、
友達に会わせる事により「W子が僕の彼女」という一種の既成事実を創り上げる
という「周りの堀から埋めていく」というような気持ちがあったのかもしれない。




でも、心境がどうであれ、
僕もW子も着々と「お披露目」を済ませていった。





そんな感じに安定はしていたけれど、
それでもW子は不安を感じていた。


それは迷い、だったのかもしれない。




ぽんは本当に離婚出来るんだろうか という疑心暗鬼
妻子持ちのこのヒトで良いんだろうか という恐さ


僕はW子のそういった漠然とした不安や恐さを感じ取っていたけれど


いつだったかW子がつぶやいた
「アタシ、ぽんの赤ちゃんのママになりたい」
という何気ない、しかし深い意味のあるコトバを信じ、


きっと大丈夫だろう と考えていた。




でも、それは僕のW子に対する甘えで、
W子のココロの中は寂しさとワガママでいっぱいだった。




それでもW子が僕に対してワガママを言わなかったのは
聞き分けの良いフリをしていたからで、


実際には
「ワガママを言って傷つけたらどうしよう」 という、僕に対する優しさと
「ワガママを言って、嫌われたらどうしよう」 という恐怖感でいっぱいだった。




でも、
僕はココロの奥底ではワガママを言って欲しかった。


例えば「もっと一緒に居たい」とか「週末に出掛けたい」とか
そういうワガママを言って欲しかった。


もちろん、少し困ってしまうだろうけれど、
それでも「その気持ち」に対して僕は喜んだだろうし、
リスクとか関係無しにW子の希望に応えただろう。





僕は、コレを書いている今でも未だに良く分かってないんだけど、
子供が産まれた後には色々と行事があるらしい。


生後約30日後のお宮参りやら何やら。





僕は子供が絡んだ行事に関して、まったく興味を示さなかった。
いや、「何もしたくなかった」というのが正しい。


ヨメさんやらウチの親やら、色々な人に
「赤ちゃんが退院する時に写真を撮らなきゃね」とか
「3人で写真撮りに行かないの?」とか
「お宮参りは?」とか


とにかく、色々と「記念行事」をするように言われたのだが、
「あー、そうだねぇ」と言ったまま、全て無視をした。




だからお宮参りも行ってないし、
退院時に写真も撮っていない。
もちろん3人で写真だって撮っていない。


後々の事だけど、
クリスマスの時だってお正月だって写真を撮らなかった。




僕は子供の前から去っていくのだから、極力何も残さないようにしたかった。
記憶にも、記録にも、何もかも。





でも、
僕にも少し心境の変化があった。




キッカケは子供の顔だ。




その頃はもう生後3ヶ月を過ぎていたので、
段々と顔のカタチが人間らしくなってきていたのだが




ある時
僕の赤ちゃんの時の顔と同じじゃんか・・・
と気付いたのだ。


それは本当にソックリで、
僕はココロの中で「マジっすか」と苦笑いした程だった。


おそらく、この時初めて
「あぁ、僕はこの子の父親なんだ」と思ったんだと思う。




確かにそういった意味では実感が沸いたのだが、
「この子は僕の子供」ではなく
「僕はこの子の父親」という実感でしかなかった。


この違いは、なんとなく大きいような気がした。




そして、ここで書いている今、
きちんと「P子」という名前があるにも係わらず
「この子」という表記しかしていない所に、当時の僕の微妙な心境が現れているのだろう。


僕は実際に家でも「P子」と呼ぶ事はほとんどなく「この子」とか「ヤツ」とか呼んでいたのだ。
「P子」と呼ぶのは、他の誰かとの会話の中に出てきた時だけだった。





僕は本来子供好きなので、
「娘を育てる」という行為自体に拒否感は無かったし*2
実際、成長を楽しみに思う部分があったのは確かだ。




でも、ヨメさんとの会話の中で子供の成長の話が出ると、
僕は言葉を濁し適当に「ああ」とか「うん」とか意味のない返事をしていた。




そして、子供を抱っこしたりあやしている時、
「あぁ、この子がW子との間に生まれた子だったら、どんなに幸せだろう」
と、つくづく思ったりしていた。

*1:知り合って最初に行った喫茶店

*2:「息子」だったらこの辺は怪しいのだが