14・ワガママ
□2006年秋□
僕とW子は比較的平穏な毎日を過ごしていた。
☆
僕はヨメさんが帰ってきた日から、自分の部屋で寝るようになっていた。
それはもちろん「3時間に1回の授乳」の度に目が覚めていたら
僕のカラダがもたないからだった。
だから僕は自分の部屋で寝た。
それは僕にとって気の休まる空間で、安心した睡眠時間だった。
問題は、ヨメさんの部屋をネコの立入禁止空間にしたせいで
僕の部屋にネコたちが溜まってしまう事だった。
だから「完全に一人で」寝る事は出来なかったけど、
それでも部屋に居る事は楽しかった。
W子はというと
相変わらず仕事が忙しく、なかなか楽にはならなかった。
派手に体調を崩す事はなかったけど、
肉体的・精神的な疲労から食欲が落ちてきていた。
僕はW子の身体が心配になり、
出来ることなら部署替えか転職を勧めたりもしていた。
☆
僕とW子は平日に1回、夜から喫茶店でお茶をして*1
週末は土日のどちらかに数時間だけ会っていた。
僕はヨメさんに「買物に行って来る」と言ってはフラっと出掛けていた。
実際には大した買物は無かったので、あまり長い時間出掛ける事も出来ず
いつも17時が近くなると「そろそろ帰らなくちゃ・・・」
と言ってはW子の後ろ姿を見送る事になった。
W子は遊び足りないのか、それとも寂しさからなのか
そのまますぐに家に帰る事はあまりなく、
少し買物をしたり、自分の地元でお茶をしてから帰る事が多かった。
そんな状況だったので、
僕はヨメさんに「友達何人かと会ってくる」と言って、
週末の朝から出掛け、ゆっくりとW子と会う事もした。
せめて、僕の方で時間を作らなきゃ
それは僕の「引け目」だったかもしれない。
そして「リスクを負っているのかな?」と感じた一瞬でもあった。
僕としては、表面上は落ち度の無い離婚を目指す以上、
なるべくなら必要以上のリスクは負いたくなかった。
そんな考えがあったのは確かだった。
W子が平日にまったく時間を作れなかったというとそうでもなく、
たまに代休を取ってくれて、そんな時は僕も休みを取り
ゆっくりと知らない街を散歩したりしていた。
☆
10月のある土曜日、
僕は適当に理由をつけて朝から出掛けた。
その日、W子の大学時代の後輩たちが、サークル発表のような事をやることになり、
それを一緒に見に行ったのだ。
→昨年の10月11日の記事を参照
僕の知り合いにW子を合わせた事は何度かあったけど、
W子の友達に会うのはこの時が初めてだった。
W子は「いろんな人に紹介できるのって、ちょっと変な感じがするけど嬉しいよね」
と言ってたけど、僕も同じ気持ちだった。
僕は舞台をしている後輩や、父親の元カノに会わせたりしていたけど、
少しずつ「お互いのテリトリー」に馴染んでいく事は
「今後へ向けての第一歩」という感じがしたのだ。
僕の中では、
友達に会わせる事により「W子が僕の彼女」という一種の既成事実を創り上げる
という「周りの堀から埋めていく」というような気持ちがあったのかもしれない。
でも、心境がどうであれ、
僕もW子も着々と「お披露目」を済ませていった。
☆
そんな感じに安定はしていたけれど、
それでもW子は不安を感じていた。
それは迷い、だったのかもしれない。
ぽんは本当に離婚出来るんだろうか という疑心暗鬼
妻子持ちのこのヒトで良いんだろうか という恐さ
僕はW子のそういった漠然とした不安や恐さを感じ取っていたけれど
いつだったかW子がつぶやいた
「アタシ、ぽんの赤ちゃんのママになりたい」
という何気ない、しかし深い意味のあるコトバを信じ、
きっと大丈夫だろう と考えていた。
でも、それは僕のW子に対する甘えで、
W子のココロの中は寂しさとワガママでいっぱいだった。
それでもW子が僕に対してワガママを言わなかったのは
聞き分けの良いフリをしていたからで、
実際には
「ワガママを言って傷つけたらどうしよう」 という、僕に対する優しさと
「ワガママを言って、嫌われたらどうしよう」 という恐怖感でいっぱいだった。
でも、
僕はココロの奥底ではワガママを言って欲しかった。
例えば「もっと一緒に居たい」とか「週末に出掛けたい」とか
そういうワガママを言って欲しかった。
もちろん、少し困ってしまうだろうけれど、
それでも「その気持ち」に対して僕は喜んだだろうし、
リスクとか関係無しにW子の希望に応えただろう。
☆
僕は、コレを書いている今でも未だに良く分かってないんだけど、
子供が産まれた後には色々と行事があるらしい。
生後約30日後のお宮参りやら何やら。
☆
僕は子供が絡んだ行事に関して、まったく興味を示さなかった。
いや、「何もしたくなかった」というのが正しい。
ヨメさんやらウチの親やら、色々な人に
「赤ちゃんが退院する時に写真を撮らなきゃね」とか
「3人で写真撮りに行かないの?」とか
「お宮参りは?」とか
とにかく、色々と「記念行事」をするように言われたのだが、
「あー、そうだねぇ」と言ったまま、全て無視をした。
だからお宮参りも行ってないし、
退院時に写真も撮っていない。
もちろん3人で写真だって撮っていない。
後々の事だけど、
クリスマスの時だってお正月だって写真を撮らなかった。
僕は子供の前から去っていくのだから、極力何も残さないようにしたかった。
記憶にも、記録にも、何もかも。
☆
でも、
僕にも少し心境の変化があった。
キッカケは子供の顔だ。
その頃はもう生後3ヶ月を過ぎていたので、
段々と顔のカタチが人間らしくなってきていたのだが
ある時
僕の赤ちゃんの時の顔と同じじゃんか・・・
と気付いたのだ。
それは本当にソックリで、
僕はココロの中で「マジっすか」と苦笑いした程だった。
おそらく、この時初めて
「あぁ、僕はこの子の父親なんだ」と思ったんだと思う。
確かにそういった意味では実感が沸いたのだが、
「この子は僕の子供」ではなく
「僕はこの子の父親」という実感でしかなかった。
この違いは、なんとなく大きいような気がした。
そして、ここで書いている今、
きちんと「P子」という名前があるにも係わらず
「この子」という表記しかしていない所に、当時の僕の微妙な心境が現れているのだろう。
僕は実際に家でも「P子」と呼ぶ事はほとんどなく「この子」とか「ヤツ」とか呼んでいたのだ。
「P子」と呼ぶのは、他の誰かとの会話の中に出てきた時だけだった。
☆
僕は本来子供好きなので、
「娘を育てる」という行為自体に拒否感は無かったし*2
実際、成長を楽しみに思う部分があったのは確かだ。
でも、ヨメさんとの会話の中で子供の成長の話が出ると、
僕は言葉を濁し適当に「ああ」とか「うん」とか意味のない返事をしていた。
そして、子供を抱っこしたりあやしている時、
「あぁ、この子がW子との間に生まれた子だったら、どんなに幸せだろう」
と、つくづく思ったりしていた。