19・心配性



僕は心配性だ。
その相手が、大事であれば大事であるほど、心配になってしまう。


心配の内容は、それぞれだ。




元気かな?
大丈夫かな?
トラブルに遭ってないないかな?
無事に家に帰ったかな?


そんな様々な心配だ。




僕はW子に対して、常に心配をしていた。
仕事が辛くなってないかな?
体調を壊してないかな?
事故とかに遭ってないかな?


そんないろいろな心配だ。





僕は、W子が帰りが遅くなったりする時に


「帰ってきたら、ちゃんとメールしてね」
といつも言っていた。


それは単純に「身の心配」だった。




無事に、事故などに遭わずに帰ってきただろうか。
バカげてるかもしれないけど、そんな心配だ。




「大げさなんだよ」




と思う人もいるかもしれないけど、
世の中、何が起こるかわからないのが現実だ。




世界は交通事故やら火事やら通り魔やら天災で溢れかえっている。




それらのトラブルに、決して巻き込まれないなんて
誰に約束が出来るであろう。





僕の絡んでいる「集まり」というのは
実は死と隣り合わせの事をしていて、


僕は集まり関連で出掛けるたびに、
生きて帰ってきた事を嬉しく思っている。*1




僕の周りでは居ないけど
実際に命を落とす人もたくさん居る。




幸い、僕は若い頃に軽いケガだけで済ませたけれど、
ちょっと気を抜けば、あっという間に黄泉路な事なのだ。




僕はその「コト」を17年以上も続けている。
つまり、17年以上「死」の隣で「死」を実感し続けているのだ。





だからこそ、
何か突発的な事に巻き込まれていないか とか
そういった事にもの凄くナーバスになるのだ。




そのナーバスさは、
相手が大事であれば大事であるほど強くなり、


失いたくないという気持ちの発露だった。


僕は、W子の事がとても大事だし、
だからこそ、遅くなる時には




「心配になっちゃうから、「ただいま」の一言だけでも良いからメールしてね。
 もしくは、遅くなるなら「遅くなる」の一言だけでも良いし」


といつも言っていた。






「それ、考えすぎだから」


そう思う人もいるかもしれない。




僕だって考えすぎなのは解ってるし、
W子がそんなに不注意じゃない事も解っている。




でも、世の中には
「ある日、突然大事な人を失った」人がたくさんいる。




まさか自分はそんな目に遭いはしないだろう


僕はそう思ってはいなかった。




それは
常に「死」と隣り合わせな事を実感していたからだった。








僕は心配性だ。
その相手がW子であれば、なおさら心配だ。




僕は、W子からの「ただいま〜」というメールを読むたびに




ホっとひと安心し、
W子が元気に生きている事に感謝をしていた。

*1:詳細は後日書きます