20・ゼロ
□2007年1月・7□
「もう、終わりにしよう」
僕とW子の間に響いたその一言は、
いつもの喫茶店の静寂を、ほんの少しだけ切り裂いた。
☆
僕の誕生日から何日か過ぎたその日、いつもの喫茶店でW子と会っていた。
待ち合わせ時間に少し遅れてやってきたW子は、
カフェオレを頼み、僕の横に座った。
僕もW子も、暫く黙っていたけれど、
何となくイヤな空気が流れていたのはお互いに解っていた。
なんでこんな雰囲気になってるんだろう。
僕はそう思いながら、W子の横顔を眺めた。
スーツを着たW子は、何かを考え込んでいるようで、
いつもより呼吸が深く、大きかった。
目に見える程の呼吸をするのは、
何か真剣に考えている証拠だった。
僕もそういった経験があるし、
つられて僕も呼吸が深くなっていった。
あのね・・・
先に口を開いたのはW子の方だった。
☆
「あのね、こないだ奥さんとP子を見せてくれた時の事なんだけど」
「うん」
「あれから色々考えたの」
「うん」
「最初はね、3人で居る所を見ても勝てるかな、って思ったんだけど、ダメだった。
だって、すごく自然なんだもん、3人で居る姿が」
「そりゃぁ、自然に振る舞ってたもん、僕」
「そうなんだろうけど、ダメ、アタシには絶対勝てない って思っちゃったの」
「僕は勝って欲しいんだけど・・・」
「んーん、ムリ。あの中に、アタシは入り込めないよ・・・」
「・・・・それで?」
僕はW子の方を向きながら聞き返した。
W子は僕に横顔を見せたまま、正面を向いて話を続けた。
「勝てない、って思ったら、すごく気持ちが楽になっちゃって・・・・」
「うん」
「そうしたらね、ぽんに対する気持ちが、消えちゃったの・・・」
「・・・なに、それ・・・」
「きっとさ、良くある事なんだよ、ぽんが奥さんに対して思っている事とかって」
「良くある事?」
「うん。きっとね、アタシの両親も同じ様な経験をして、それでも生活を続けてるんだよ」
気持ちが消えちゃったという言葉もそうだったけど、
その一言にも僕はショックを受けた。
ちょっと待ってくれ。
良くある事?
そんな一言で片付けられてしまうのか?
僕が何年間も「結婚ってなんだ?」と考え続けて来た事が
「良くある事」で済んでしまうのか?
そう思った時、僕は全否定をされた気分になった。
「良くある事かもしれないけど、僕にとっては良くある事なんかじゃないよ・・・」
僕は力の抜けた声で喋るのがやっとだった。
☆
「3人の姿を見せてくれた事も、P子を抱かせてくれた事も感謝してるし、嬉しかったの。
イヤな言い方だけど、勝てるって思ってたし、そうしたかったけど、ダメだったの。。。
ダメだ って思ったら、辛さとかそういうのが全部消えて、すごく楽になったの」
「・・・・それで?」
僕はそう一言呟いたけど、その先の言葉なんて聞きたくなかった。
でも、W子は何かを決心していたし、
あの呼吸の大きさは、決心した証拠だという事も解っていた。
「もう、終わりにしたい」
W子は正面を向いたまま、そう言った。
「ちゃんと目を見て言ってよ・・・」
僕がそう言うと、W子はその日、初めて僕の顔を見た。
真面目で、決心を込めた表情で僕を見つめるW子の顔には
いつもの笑顔も、柔らかいまなざしも見つける事が出来なかった。
「もう、終わりにしよう」
僕とW子の間に響いたその一言は、
いつもの喫茶店の静寂を、ほんの少しだけ切り裂いた。
その一言は、ここ数日、なんとなく予想していた事だったけど、
それでも僕は受け入れる事が出来なかった。
受け入れる事なんて、出来る訳がない。
「いやだ」
僕はW子の目を見たまま、そう即答した。
「ダメ、終わりにしたい」
「なんで? チャンスも無いの?」
「無い」
W子の返事も簡潔だった。
☆
僕は何の言葉も浮かんで来なかった。
頭の中が真っ白だった。
「全然、やり直せる可能性は無いの?」
「・・・うん」
「1%も?」
「うん」
「ホントはこのくらいあるんじゃない?」
僕はくっつけた親指と人差し指を少し拡げてそう言ったけれど、
W子は首を横に振るだけだった。
「でもさ、辛い気持ちなんて、誰とどう付き合ったってつきまとうよ」
僕はそう言ったけれど
W子は「それならアタシは誰も好きにならなくても良い」
と呟いただけだった。
☆
気持ちがゼロになったという状態の相手に対し、
何を言ってもムダなのは、僕自身が良く解っていた。
僕だって気持ちがゼロの相手に対して、そうだったからだ。
そしてW子が「ゼロになった」と言うならば、それは本当にゼロで、
W子もまたゼロになった相手に対しては
「もう好きじゃないってだけ」と思っている事を僕は知っていた。
それはW子が、前の彼に対してもそうだったからだ。
諦めるしかないんだろうか
受け入れるしかないんだろうか
諦められない
受け入れられない
何としてでもやり直したい
でも、W子の決意は変わらない
僕は何も分からなかった。
僕は何も言えなかった。
ただ、チャンスが欲しかった。
ただ、仕切直すチャンスが欲しかった。
そもそも、僕はその日
ちゃんと仕切直して、話し合って、また一歩づつ進んで行きたいと
その話をW子としたくて逢ったのだ。
でも、W子は別の答えを出してしまっていた。
☆
駅までの道を、僕は強引にW子の手を取って歩いた。
ゆっくりと、時間をかけて歩いた。
僕は途中で立ち止まり、W子を抱きしめた。
「どうしても、ダメ、なの?」僕は小さな声で呟いた。
「・・・・だめ」
「やり直せないの?」
「・・・・うん」
僕の腕の中にいるW子は言葉少なく呟くだけだった。
そして、
僕は力強くW子を抱きしめたけど、
W子の腕に、力がこもる事もなかった。
「ここでバイバイ、なのかな・・・・」
その横断歩道は、いつも僕とW子がバイバイしていた場所だった。
一緒に駅まで行こうと思ったけれど、
僕にはそれが出来なかった。
なぜかは判らないけれど、僕はその横断歩道を渡ることが出来なかった。
「じゃぁ・・・」
そう言ったW子は、後ろを振り返る事もなく、横断歩道を渡っていった。
僕は、その後ろ姿が見えなくなるまで、
ただ、見つめる事しか出来なかった。
☆
Sub:最後のメール
本文:の、つもり。
凄いショックの反面、この一週間漠然と予想していた部分もあるから
どちらかというと「やっぱりか・・・」という部分もある。
今までありがとう。
W子と知り合って1年ちょい、本当に幸せだった。例えようもなく幸せだった。
過去形で書かなくちゃならないのが哀しいけど、とてもとても愛していた。
真剣にW子と生きて行きたかった。
1年間、僕の横にいてくれてありがとう。愛してくれてありがとう。
とてもとても感謝しています。
カラダ、無理をしないように、元気でいてね。
僕は、W子を愛しています
帰りのバスの中、僕は最後のつもりでメールをW子に送った。
返事は来ないだろうけど、送りたかったのだ。
W子を初めて抱いて、
「横にいるのがW子でも良いのかな」と思った日から
ちょうどピッタリ1年経った節目の日、
僕は、W子に別れを告げられた。
そして、それは
最高の3○歳を終え、
最悪の3○歳の始まりだった。