33・その「あと一歩」



□2008年6月□ 今、現在


そのメロディーはいつものように僕を混乱させた。
いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。


・・略・・


僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。
失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。


・・略・・


前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大丈夫かと訊ねた。
「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから」と僕は言って微笑んだ。
「そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります」
彼女はそう言って首を振り、席から立ち上がって素敵な笑顔を僕に向けてくれた。






僕がこのノルウェイの森の書き出しを初めて読んだのは18歳の時だった。
この頃は「ふーん。そういうもんかね」と軽く流していたし、その真意も良く分からなかった。
大体、この主人公はこの時37歳で、僕より20歳近く年上だったのだ。僕に分かるわけがない。


でも、30代半ばになった今、その意味が分かったような気がした。
なるほどね、そういう事なのか と。


そして、
これが歳を重ねるという事なんだ と思ったりもした。




18歳の時、僕はまだ何も失っていなかった。
30代半ばの今、僕は幾つかの「何か」を失っていた。


それは生きている限り当然の事だったけど、それでも哀しくなる時はある。






この1年、僕なりに色々と考え、悩み、行動をしてきた。
その結果、多少の変化はあったものの、最終的には何も変わってはいなかった。
結局のところまだ離婚は成立していなかったし、別居にすら至っていなかった。


しかしヨメさんも割り切ったのか、僕への干渉は無くなり、
僕が出掛けたりする際のイライラは無くなったようだ。




今の状況というのは、完全なる「同居」だった。
同じ屋根の下で暮らしているというだけで、それ以外の事は無かった。


僕が会社に行く頃にP子とヨメさんは目を覚まし、
僕が会社から帰る頃に二人は寝る準備をしている。




休日は買い物に行く時だけは三人で出掛けたが、
それ以外は各々が勝手に生活をしていた。


多少の会話はあったけれど、それはP子に関しての事が8割で、
後は些細な世間話だった。




そして、普通なら息の詰まるその状況が、意外と気楽な感じがした。




僕はP子とヨメさんを「家に置いてあげている」と思った事は無かったが、
ヨメさんは「置いて貰っている」と考えているようだった。


ヨメさんは、住まわせてもらう代わりに家事をしている感じだった。





僕がB美と付き合いだしたのは昨年の9月の事だった。


それはまったく予想をしていなかった出来事で、
今でも戸惑っている部分があるのは確かだった。


詳しいコトは別の話で書くかもしれないけれど、
僕はまさか付き合う事になるとは思っていなかった。




彼女は、僕と同じ趣味を持っていた。
だから最初は色々と話しが出来れば良いな と思っていたし、
それ以前に誰かを好きになる予定も無かった。




色々な話をしているうちに僕は彼女に興味を持った。
それは異性という部分以上にキャラクターとして興味を持っていた。


僕はゆっくりと時間をかけて仲良しになれれば良いな と考えていたから
話をしていても自分の事を言うより、彼女の話を聞くことの方が多かったし、
気を引くような事も言わなかった。




しかし、変化は予想だにしない処で起きて、
僕はその流れに乗ってしまった。




僕の予想とは裏腹に、彼女は想いを深めてくれていた。


そのキッカケは何も無かった。
「あの時、突然恋に堕ちたんだと思う」と後から聞いた。


「あの時」僕と彼女は他愛も無い世間話をしていただけだったが、
彼女は他愛も無い状況ではなくなっていた。


その3週間後、彼女は僕に想いを伝えた。




その時、僕は自分の状況を話すべきだった。
でも、それが出来ないまま、彼女の想いを受け止めてしまった。




彼女は僕が独身だと思っている。
結婚している事も、子どもがいる事も知らない。




僕は正直に話す事も出来ずに、9ヶ月近く付き合いを続けている。





K子には「逃げましたね」と言われたけれど、半分は当たっているかもしれない。
確かにW子を失った辛さから逃げた部分はあるかもしれないけれど、
僕は彼女を好きになったから付き合っているのだ。


僕はW子を忘れるためにB美と付き合っているのではない。
もちろん、気が紛れる事はあるだろうけれど、
訳もなく哀しくなる瞬間というのはあったし、そんな時は時間が過ぎるのを待つしかなかった。




友人に、
「じゃぁ、奥さんと別れてその彼女とやり直すの?」と聞かれた時、
僕はハッキリと否定した。


僕は彼女を好きだけど、それとはまた別の問題だったし、
そもそも、本当の事を話した時点で捨てられる可能性の方が高いのだ。




同じ趣味を持つ同士として長年の付き合いは出来るだろうけど、
それ以外の事は、僕には何の確約も出来なかった。




僕が否定した理由はいくつかあったけど、
その一つは、僕が彼女に対して「愛してる」というセリフを言えない事にある。




僕は彼女を好きだけど、
愛しているという域には達していなかった。




僕が今まで「愛している」と言えたのは3人だけだった。
一人はU子。
もう一人はヨメさん。




そしてW子だ。





僕は今でもW子を大事に想っている。


やり直したいとか、そういった具体的な事を口にするつもりはないし、
そもそも今の僕にそんな資格は無い。




ただ、とても、とても大事な存在として、僕の心の中に居続けている。




それだけだ。




ふと、
元気にしているかな? とか
ちゃんと笑って過ごしているかな? とか思う時がある。


その度に失った哀しさを感じる事はあるけど、
それ以上に「笑顔でいてほしい」という願いの方が強かった。




その感情が何を現しているかは分からなかったけど、
以前のような「執着」が無いだけ健全な気がした。





W子は20代半ばを少し過ぎた。
楽しい毎日を過ごしていて欲しいと、僕は切望している。








P子は2歳になろうとしている。
毎日元気に遊び回って、病気もぜずに育っている。






僕は30代半ばになった。
毎日、あれこれと考える事はあるけど、それなりに過ごしている。


半年前に署名をし判子を押した離婚届けは、僕の部屋に置いたままだ。




いい加減、ハッキリとさせないといけないのだけれど、
まだ離婚届をヨメさんに見せてはいなかった。






毎日、あれこれと考える事はあるけど、それなりに過ごしている。


それなり という言葉で濁すのはズルイだけだと分かっているけれど、
その「あと一歩」をなかなか踏み出せないでいた。




その、あと一歩を踏み出すのは、今なのかもしれない。




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